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by Patch_It_Up
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福島に生まれ青森に育つ。18歳で画家を志し上京。紆余曲折の末、50歳にして画業に専念。油彩&水彩の風景画・人物画に日々取り組んでいます。
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素晴らしき「レンピッカ展」

渋谷 Bunkamuraで『レンピッカ展』を観た。

タマラ・ド・レンピッカ(1898〜1980)は、ポーランド出身の女流画家。
1920年代中頃から30年代前半が活動の絶頂期で、アール・デコを代表する画家のように思われがちだが、その独創性は分類不可能である。
私が雑誌で最初に観たレンピッカの絵は、「緑色のブガッティに乗るタマラ」。

『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』 1925年

「芸術新潮」1988年4月号が「世界が恋する1920年代」と題した特集を組んでいて、私は未だにこの胸躍る記事と写真に魅了されているのだが、上の絵はまさにその夢と熱気に溢れたローリング・トゥエンティを象徴している。高級車を乗り回す女…それは突如現れた異星人のように捉えられたであろう。
この、ひれ伏さずにはいられない絵に恋した私は、レンピッカの実物に触れることを夢見続けていた。

さて、本邦初公開の30点を含む90点で構成された本展は、レンピッカの画業を網羅する素晴らしいものであった。
残念だったのは、「緑色のブガッティ…」が原画ではなくシルクスクリーンであったこと。また、下の絵のようなショッキングな作品が少なかったのは主催者の意図なのか。

『アンドロメダ』 1927/28年

この絵にはレンピッカの芸術性が如実に表れている。
裸婦の描き方は新古典主義のアングルからエロティシズムを抽出し、キュビズム的背景によってモダニズムを保持し、当時の写真家が用いた被写体を枠のギリギリまで詰め込む先端的手法によって、既存の絵画を超越したレンピッカ独壇場の世界を展開している。
アンドロメダとは母親の美貌が神に勝ると豪語したことから、怒った神々によって怪物の生け贄にするために、波の打ち寄せる岩に鎖で縛りつけられたギリシャ神話の女。(冒頭の写真のように)ナルシストで、レズビアン(正確にはバイセクシャルか)であることを隠さなかったレンピッカは、自分を慕う女が愛おしく、アンドロメダの化身として描いたのかも知れない。

本展は、1921年の最初期の作品から1980年の遺作までを年代順に展示していた。私は8番目の絵の前で早くも釘付けになった。

『緑のヴェール』 1924年

マグダラのマリアを描いたとされる、46×33cmの小さな作品であったが、単純明快な色彩と構図は燃え上がるようなエネルギーを発していた。レンピッカ・グリーンとも言える独特の緑色は、現物を観た者でなければ味わえない陶酔感をもたらす。唇の赤は、補色調和を見事に演出している。深い眼差しはドラマチックでもあるし、窮屈な構図の中に遥か遠くまで続く広がりを醸し出している。26歳でこの域に達したレンピッカの天才性に驚かされた。

『エストリフ公の肖像』 1925年

20年代、レンピッカは富俗階級からの肖像画の注文に支えられていた。旧貴族や実業家たちは、こぞってこの独創的な女流画家に絵を描かせた。中には不純な動機の者もいたが、レンピッカは巧みに利用しながら財を成していった。
このような男性の肖像画が多く展示されていたが、その全てが威厳に満ちている。現代風に考えると、イケている女ほど男に敬意を払わないものだが、レンピッカの絵には注文画であることを差し引いても男性に対する尊敬の念が滲み出ている。草食男子やら自虐的恐妻家など世界中に一人もいなかった時代ならではと言えるかも知れないが、真のフェミニストたるレンピッカを垣間見た。

『ピンクの服を着たキゼット』 1926年

レンピッカは娘のキゼットの肖像を5点描いており、この絵はその中でも最も有名で画業を通じても最高傑作のひとつとされている。11歳の娘に危なげなエロティシズムを施したレンピッカの魔力。窮屈なポーズ、片方の靴を脱いだ足、限りなく白に近いピンクの服…。
案の定、この絵はウラジミール・ナボコフ著『ロリータ』の表紙に度々使われたそうだ。私もRuiさんも納得。彼女はキューブリック監督の「ロリータ」を観ており、しばし小声で映画談義(笑)。私は97年のリメイク版も観ていたのであるが、表現が直接的過ぎて彼女には薦めなかった。しかし…今ネットで「ロリータ」のことを調べたら、リメイク版の方が原作に忠実だったそうだ。キューブリック版の情緒的表現こそ時代に相応しいと思っていただけに驚きであった。

『赤いチュニカ』 1927年

モデルは、レンピッカがブローニュの森を散歩中に心奪われた女、ラファエラ。一説には娼婦とも。このグラマラスなモデルは、数多くの官能的な傑作をレンピッカに描かせることになる。
Ruiさんに、「樽さんが描く女性がとてもいい」と言われたが、それは何を隠そう女性が好きだからで(笑)、この絵もレンピッカの女性に対する愛情に止まらない欲情が描かせたであろうことが分かる。

『タデウシュ・ド・レンピッキの肖像』 1928年

タデウシュはレンピッカの最初の夫でありキゼットの父親。「レンピッキ」とあるのはスラブ語圏での男性名で、レンピッカ自身も画壇へのデビュー時には女性であることの偏見を避けるために「レンピッキ」を名乗っていた。
さて、ダンディズム溢れるこの絵も私は好きであった。特に片方だけ白い手袋をはめた手でシルクハットを持つポーズが格好良く…。
しかし、本展で初めて分かったのだが、この絵は離婚の瀬戸際に描き始められ、完成間際に離婚が成立したそうだ。私が白い手袋だと思っていた左手は、レンピッカが意図的に未完にした。結婚指輪をはめているであろう左手を描かなかったのである。去り行く男のダンディズムを更に感じずにいられないが、それよりも結婚生活の痕跡を残すことなく夫を解き放ってやったレンピッカのダンディズムに敬服した。

『難民』 1931年

1929年の世界恐慌により肖像画の注文が途絶え、さらに鬱病が発症し、レンピッカのテーマは劇的に変わる。この絵を観た時、あまりの落差に悲しみを覚えた。
表現様式は保っているが、香水が香るようなかつての絵とは全くの対極にある。革命前のロシア内戦の犠牲になった東欧難民を描いていると言われているが、さらにスペイン内乱、ナチスの台頭、第二次世界大戦をも予感させる。
30年代はレンピッカにとって最悪の時代で、米国へ渡るまで創作活動も停滞する。救いは、ハンガリーの大富豪、クフナー男爵との再婚であった。

『修道院長』 1935年

苦悩の日々の中、トスカーナ地方の修道院への隠匿を試みた後、この絵は描かれた。救いを求めるレンピッカの心情が痛い程伝わってくる。

『メキシコの女』 1947年

1939年、レンピッカは米国への移住を決める。ヨーロッパの戦火から逃れるためと、精神の安定を求めてのことだ。渡米直後から画風は優雅になり、牧歌的な風景画や精密な静物画、さらにシュルレアリスム、抽象画まで一見精力的に創作活動に没頭する。しかし、もうレンピッカの絵ではなくなってしまった。娘のキゼットが語っている、「上流生活が始まり、芸術を虚ろなものにしてしまった。ニューヨークに到着した時は、もうタマラ・ド・レンピッカではなくなっていました。クフナー男爵夫人という上品な骨董品におさまってしまったのです」。
この『メキシコの女』と『アンドロメダ』を比較すると、キゼットの言葉は明白である。悲しいかな、レンピッカは芸術家としての強迫観念からハリウッドスターとの交際や、モデル募集の派手なコンテストなどで名声を保とうとする。これは同時期(1940〜48)に米国へ滞在していたサルバドール・ダリのジレンマに似ている。ダリは、「自分を知らない人間がいるということを考えただけで耐えられない」とニューヨークで奇行の限りを尽くしたのである。レンピッカとダリがニューヨークで会ったかどうか知らないが、意外に意気投合したのかもだ(笑)。

1961年、ニューヨークのギャラリーへ出展した作品が酷評され、レンピッカは二度と作品を公開しないことを決意する。さらに同年、夫であるクフナー男爵が死去し、精神に決定的なダメージを受け隠遁生活に入る。

忘れ去られたレンピッカは、1967年パリに短期間滞在していた。その時、古い雑誌でレンピッカの作品を知った若い画商グループからの連絡を受ける。画商たちの目的は再びレンピッカの絵を世に知らしめること。レンピッカは説き伏せられ、1972年パリの画廊で過去の代表作48点を展示した回顧展が開催された。これが大成功を収め、レンピッカは再評価される。

回顧展の成功により、作品を入手したいという要望が高まり、レンピッカは過去の自作のレプリカ制作に取り掛かる。これは、ジョルジュ・デ・キリコも晩年取り組んだ創作活動である。私個人としては、そのような作品は欲しくはないが(笑)。

1980年3月18日、メキシコ・クエルナバカの自宅でタマラ・ド・レンピッカ死去。享年82。
アトリエには制作中のレプリカ二点がイーゼルに載せられていた。

一点は「美しきラファエラⅢ」。1927年に恋人ラファエラを描いた作品のレプリカ。
もう一点は、「聖アントニウスⅣ」。オリジナルは1936年制作。実際には鬱病の治療を受けていたチューリッヒの精神科医の肖像である。

『美しきラファエラ』1927年

『聖アントニウス』1936年

画家の遺作と聞いて思い浮かぶのが、ゴーギャン。タヒチからさらに辺鄙なマルキーズ諸島で生涯を終えた時、描きかけの絵は若き日に過ごしたブルターニュの雪景色であった。ユトリロも同様に、南西仏のホテルで息を引き取った時、イーゼルにあった未完の絵は若き日の思い出の町、モンマルトルのコルトー街であった。
レンピッカの場合、絶頂期の官能的代表作と低迷期のイコン的作品が遺作であった。近代美術史上最も偉大なる女流画家の生涯を見事に締めくくっている。実に潔いではないか!。

待ちに待ったタマラ・ド・レンピッカの実体験にインスパイアされた私は、Ruiさんと計画した小さなプロジェクトに大いなる夢を抱いたのである。。。。
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by Patch_It_Up | 2010-04-27 02:34 | 美術見聞録 | Trackback
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