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お部屋に絵を飾りましょう
by 棚倉樽
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福島に生まれ青森に育つ。18歳で画家を志し上京。紆余曲折の末、50歳にして画業に専念。油彩&水彩の風景画・人物画に日々取り組んでいます 。
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青木繁展-3・「わだつみのいろこの宮」編

青木は『海の幸』によって名声を得たが、それは作品の評価だけによるものであった。つまり、人間青木繁の評判は悪く、その激しい言動は次々に敵対者を作っていった。また、『旧約聖書物語挿絵』で得た百円で帽子やステッキや靴を買い、あてもなく遊び回り、金がなくなって、「何故俺は絵具を買わなかったのか!」と嘆くといった無軌道さも人々に不信感を与えた。

数少ない青木の支援者は、福田たねとその家族であった。
明治38年8月、たねとの間に一児幸彦が誕生すると栃木県芳賀郡水橋村の福田家の近くに住み、庇護を受けて平穏な生活を送る。そして明治40年、この地で『わだつみのいろこの宮』を描き上げる。

明治40年は、我が国の近代美術元年とも言える年であった。洋画界、日本画界とも旧派と新派が激しく対立していたのであるが、同じ土俵で競うことが出来るよう「文部省美術展覧会(文展)」が開設されることになった。現在の「日展」の原形である。
そして、秋の第一回文展の前哨戦ともいうべき「東京府勧業博覧会」が同年3月に開催され、青木は『海の幸』に続く大作『わだつみのいろこの宮』を出品し一世一代の勝負に出る。

『わだつみのいろこの宮』 明治40年(1907)油彩 185×68.5cm
青木繁展-3・「わだつみのいろこの宮」編_a0146758_0325788.jpg

私が若い頃にこの絵を画集で観た時の印象は、「木の上にいる高貴な美少女に召使いの女二人が壷の水を捧げている場面」であった。また、そのアール・ヌーヴォー的な画風にも官能的なものを感じ、青木繁とはモダンな面も備えた画家なのだと感心した。
かつて小林秀雄は、「絵画というものは解説など読まず、題名にとらわれず直感的に観るものである」と言っており、私も極力実践している。(余談になるが、昨今の美術展は解説パネルだらけで更には有料音声ガイドまで用意している。小林が見たら激怒するであろう)

『わだつみのいろこの宮』は、古事記の海幸彦と山幸彦の物語の一場面を描いている。
兄の海幸彦から借りた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の宮」へ辿り着き、水を汲みに来た海神の娘豊玉姫と出会う。
やがて二人は婚姻を結び、しばらくいろこの宮で暮らすのであるが、釣り針を取り返した山幸彦は海神から宝物を貰い帰ってゆく…。浦島太郎の物語の元になったとも言われている。

さて、私の直感的な印象は青木の制作意図と大きく違っていた。木の上の美少女は山幸彦であったし、召使いの一人(左の女性)は豊玉姫であった。さらに重要なのは、私には到底海底の場面には見えず、豊玉姫の側に描かれた水泡は壷からこぼれ落ちる水滴を描いたものと信じ切っていたのである。
今回の『青木繁展』での最大の楽しみは、『わだつみのいろこの宮』の実物を観た際に私の直感的印象が崩れ青木の術中にまんまとはまるか、ということであった。

この絵を観た夏目漱石は、小説『それから』の中で称賛しているのであるが、「…青木といふ画家が海の底に立つている背の高い女を画いた…」と書いている。やはり実物は海底を彷彿とさせてくれるのだろうか…。
私はついに絵の前に立った。結果、ほぼ私が抱いてきた直感通りであった。あえて海底と思えるのは、見事に表現された水泡だけであった。

青木は『わだつみのいろこの宮』を制作する前に詩人の蒲原有明に、「『黄泉比良坂』は海中ではなかったですか?」と問われ、「あれは海中とも地中ともわからぬということで苦労しましたが、今度は正真正銘の海中、例えば山幸彦が豊玉姫と出会うところなどを描いてみたいと思っているのです」と語っている。つまり、あくまでも青木は海底の場面を描いたのである。
かと言って、私は『わだつみのいろこの宮』に失望した訳ではない。その絵画としての完成度は感動以外のなにものでもなかった。

しかし、この作品の審査結果は三等の末席、一等から数えると23番目という屈辱の審判が下ったのであった。
青木は、「あの絵が一等になり千円の値段で売れれば全てが変わる!」と回りに豪語し、夏目漱石が絶賛していたとの噂を聞いて絶対の自信を深めていた。福田たねの父親の、「経済的にはこちらで援助するから、娘と身を固めてはどうか」との提案にも、「いやいや、あの絵が一等になればご迷惑を掛けることなく…」とうそぶいていたのである。

さて、私は何故にこの作品が博覧会で評価されなかったのかを考えた。
審査員の耳にも届いていたであろう青木の悪評は別にして、「青木繁『わだつみのいろこの宮』」と題されたこの絵を観た時に、審査員たちは、「ん?、これは海の底の絵ではないのか?」と一様に反応したのではないか。また、青木の斬新で激烈な作風に期待した審査員は、その落ち着き払った作風にがっかりしたのではないか。
『海の幸』にしても『黄泉比良坂』にしても、青木は展覧会での入選などを特に意識せず自由奔放に創作したように思う。その反面『わだつみのいろこの宮』は、困窮した生活を何とか打破することを第一の目的にして一等になることのみを画策し、インスピレーションよりは技巧に頼り、言うなれば考え過ぎの面白みのない絵を描いてしまったのである。

もしも、かつての青木の芸術的情熱をもってこの題材に挑んでいれば、「海底の情景」など驚嘆の表現力をもって万人を唸らせていたであろう。
我々が『わだつみのいろこの宮』に感動していることなど、青木本来の才能の1%にも及ばないことなのであります・・・。

まだつづく。。。。
by Patch_It_Up | 2011-08-28 02:35 | 青木繁 考 | Comments(0)
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