お部屋に絵を飾りましょう
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福島に生まれ青森に育つ。18歳で画家を志し上京。紆余曲折の末、50歳にして画業に専念。油彩&水彩の風景画・人物画に日々取り組んでいます 。
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カテゴリ:青木繁 考( 6 )

ブリヂストン美術館で「海の幸」に再会

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 東京京橋のブリヂストン美術館が、ビル新築工事にともない5月18日を最後に数年間休館する。私は年間パスポートを購入して頻繁に通い、多くを学んだ。2000円だった年間パスポートは東日本大震災を機に発行されなくなった。そのパスポートで最後に観た展覧会が「没後100年 青木繁展」であった。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」をはじめ、数多くの青木作品を観られたことの感動は忘れられない、とともに当館に感謝した次第である。
この時のレポートはこちらページにて→「青木繁 考」
 今回の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」と銘打った展覧会に、再び久留米の石橋美術館所蔵の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」、そして藤島武二の「天平の面影」等が公開されている。これらの作品を東京で鑑賞できる機会はしばらくないと思われるので、必見である。
 金曜は午後8時まで開館しており、見終わった後のショーウィンドウが綺麗であった。。。。
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by Patch_It_Up | 2015-05-03 20:42 | 青木繁 考

青木繁展-1・「海の幸」編

待ちに待ったブリヂストン美術館での「青木繁展」を観た。
36年振り、総展示数240点の大回顧展である。
絵を描き始めた中学生の頃の私にとって、青木繁は憧れの画家であった。言うまでもなく『海の幸』に衝撃を受けたのが発端である。それまで教師を含む様々な人たちの、「良い絵は塗り残しがあってはいけない」とか、「油絵は厚塗りにするほど良くなる」とのアドバイスを真に受けていた私にとって、『海の幸』はそうした常識を覆す作品であった。画集で見ただけでも『海の幸』は塗り残しはあるし、ゴッホの絵のような絵具の盛り上がりもない。にもかかわらず、「この作品によって日本の油絵の歴史が始まった」とものの本には書いてあるし、国の重要文化財にもなっている訳だ。
そのような我が国独特のアカデミックな美術観と相反する画風に激しく戸惑う私であったが、それを何の意味も無くす程の自由奔放な技法と匂い立つような青木の情熱に胸躍らせたのであった。

『海の幸』 明治37年(1904) 油彩 67.0×178.7cm
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久留米の石橋美術館に収蔵されているこの絵を観るのは今回が初めてであった。念願叶った訳である。
明治37年夏、青木、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねの四人は房総半島南端の布良へスケッチ旅行し、この時に『海の幸』が描かれた。この布良へ私は一昨年の11月にサイクリングで訪れている。海の幸記念碑と布良の海を見た時の感動、そして青木たちへの思いは『青木繁「海の幸」記念碑』と題したブログ記事にしてあるのでご一読願いたい。

さて実際に観た『海の幸』は、前のブログに書いた通り青木の野望とその後の失望が宿っていた。私は絵の前で、黒田清輝が主催する白馬会第九回展に出品された時の『海の幸』を懸命に想像した。詩人の蒲原有明は『海の幸』の強烈な印象を次の文で残している。

「…金の光の匂ひと紺青の湖の匂ひが、高い調子で悠久な争闘と諧和を保つて、自然の壮麗を具現している。そしてあの赤褐色な逞しい人間の素肌のにほひが、自然に対する苦闘と凱旋の悦楽とを暗示して居る。一度くらんだ僕の眼が、漁師の銛で重く荷はれている大鮫の油ぎつた鰓から胸や腹にかけて反射する蒼白い凄惨な光をおずおずぬすみ見て居るひまに、僕の体はいつしかその『自然』の眷属の行列の中にずんずん吸ひ込まれて了つていたのである…」

この印象は、現在の『海の幸』には薄い。まず、背景に使われた金色の絵具は退色し残っていない。それ故に、全体的に沈んだ画面になっている。金色だけでなく例えば鮫の「鰓から胸や腹にかけて反射する蒼白い凄惨な光」も色褪せてしまっているのではないか。また、青木は展覧会出品後にかなりの加筆をしている。特に画面中央のこちらを向いている福田たねの白い顔は、他の漁師たちの誇らしげな表情とは明らかに違和感があり謎めいた印象を残してしまっている。つまり、「自然に対する苦闘と凱旋の悦楽」を濁しているのである。

蒲原有明が賞讃した時の『海の幸』と現在の『海の幸』は違う作品と言っても過言ではないのであるが、それは現在のものを駄目だと私は言いたいのではない。最初に私が『海の幸』から受けた感動は、やはり夕陽を浴びた漁師たちの誇らしげな姿と海から与えられる幸の尊さだったのである。
だが、かつての『海の幸』はもっと別の次元、おそらくは青木が探求していた神話の世界に近いものであったろうと思うのである。背景に金色を施したのは、漁師たちを神々しく表現する意図があったのだろう。
かつての『海の幸』は明治浪漫主義そのもので、現在の『海の幸』は自然主義的な魅力を我々に放っているのかも知れない。

白馬会展の話題をかっさらい、国木田独歩が500円(現在の貨幣価値で150万円程か)で『海の幸』を買い取りたいと言っているとの噂を聞いた青木は有頂天であったろう。が、国木田どころか誰からも買い取りの申し出はなく、生活は困窮の極致へ。『海の幸』の連作に意欲を燃やしていたのであるが、いっこうに創作意欲が湧かず『海の幸』に加筆する毎日。さらに、福田たねが妊娠。元々青木は結婚の意思もなかったため精神的に追い込まれる…。

私の目の前にあった『海の幸』は次第に金色に輝き出し、海の青さと褐色の漁師たち、油ぎった鮫の白い腹が迫ってきた。青木の野望とロマンを垣間見て感動に震える思いであった。
そして、他の来場者が絵と私の間を通り過ぎた瞬間、目の前から消えていた福田たねの白い顔が絵に張り付き現実に戻された。やはりそこには青木の汗と涙にくすんだ焦茶色の『海の幸』があった…。

小林秀雄が戦後間もなく催された西洋画展で、ゴッホの絶筆といわれていた『烏のいる麦畑』の複製画に魅せられ購入したそうである。書斎に飾り毎日眺めていたが、ある日とうとうアムステルダムのゴッホ美術館で現物と対面する。言葉にならない感動を期待していた小林は思いがけない気分に襲われこう言っている。「複製画の方が絵としては優れていた。本物の絵はあまりにも生々しく、それはもはや絵ではなかった」。おそらく、迫り来る生身のゴッホに美術作品を超越した血肉のようなものを感じたのであろう。
同じように『海の幸』は私にとってあまりにも生々しかったのであります・・・。

他の青木繁作品の感想は次回に。。。。

『女の顔』 明治37年(1904) 油彩 45.5×33.4cm ※モデルは福田たね
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by Patch_It_Up | 2011-08-28 02:37 | 青木繁 考

青木繁展-2・「旧約聖書物語挿絵」編

『青木繁展』は約10年間の画業を年月を追って紹介していたのであるが、青木ほどその時の心境がはっきりと作品に表れている画家は少ないということをあらためて実感した。
気分が高揚している時や野望に燃えている時の作品は構図も色彩も躍動しているが、落胆や邪念を抱いている時の作品は全くと言ってよいほど魅力がない。

青木が初めて画壇に認められ世間の評判を得たのは、白馬会第八回展に出品した十数点におよぶ神話を題材とした小作品群であった。その魔力のようなものを放つ斬新な芸術作品に、主催者の黒田清輝はこの回から設けた第一回白馬賞を与えた。

『黄泉比良坂』 明治36年(1903)紙:色鉛筆、水彩 47.5×32.5cm
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これは第一回白馬賞を受賞した作品のひとつで、「古事記」のエピソードを題材にしている。亡くなったイザナミを追って黄泉の国に入ったイザナギが変わり果てたイザナミを見て驚き逃げ帰る場面。黄泉比良坂(よもつひらさか)とは黄泉の国への入口で、イザナギがそこへ怯えながら戻る姿を描いている。追い掛けるイザナミと黄泉の醜女の姿が不気味に躍動し、黄泉の国の暗さと黄泉比良坂附近の明るさのコントラストも見事だ。このような画風と題材の絵を見たことがない当時の人々にとって衝撃的だったであろう。

当時、日本の洋画界は明治初期洋画の流れをくむ原田直次郎や浅井忠が発足した「明治美術会」と、黒田清輝や久米桂一郎らが結成した「白馬会」に二分されていた。暗く沈んだ画風の明治美術会に対し、光溢れる情緒的な画風を推進する白馬会が反旗を翻した訳である。
青木の才能が黒田清輝の目に留まったことは、実に幸運であったと言える。
そして『黄泉比良坂』の翌年、白馬会第九回展に『海の幸』を出品、画家として最高潮期を謳歌するのである。

しかし、前回の記事に書いた通り『海の幸』は青木に幸をもたらさなかった。
困惑と苛立ちに押し潰されそうな二年間を過ごすのであるが、明治39年、思いも寄らぬ仕事が舞い込む。金尾文淵堂出版『旧約聖書物語』の挿絵である。

『ソロモン王とエルサレム』 明治39年(1906)板:油彩 23.4×32cm
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『ネプカデネザルとダニエル』 明治39年(1906)板:油彩 33.1×23cm
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これは文淵堂に依頼された八枚の挿絵のうちの二枚であるが、本展では八枚全てを展示している。挿絵といっても板に丁寧に描かれた油彩であった。私はこの挿絵群に最も感動した。青木の生き生きとした想像力に満ちている。色彩も光り輝いている。
日本神話に留まらずギリシャ神話や聖書の世界も探求していた青木にとって絶好の題材で、創作意欲が滲み出ている。さらに、百円という画料にも気持ちが高揚したであろうことが手に取るように分かる。
『海の幸』を頂点に青木繁芸術は衰退の一途を辿る、と言われているが、私にとってこの『旧約聖書物語挿絵』が青木の才能が爆発した最後の作品であると思えた。これ以降の作品には現在傑作と言われているものもあるが、本展で実際に観た限りでは青木繁本来の芸術性という意味では見劣りする作品ばかりであった。
つまり、冒頭に書いた通り青木は「その時の心境がはっきりと作品に表れている画家」で、『旧約聖書物語挿絵』以降の生活、精神、肉体はさらに行き詰まり、健全な創作活動が出来なかったのである・・・。

次回へつづく。。。。
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by Patch_It_Up | 2011-08-28 02:36 | 青木繁 考

青木繁展-3・「わだつみのいろこの宮」編

青木は『海の幸』によって名声を得たが、それは作品の評価だけによるものであった。つまり、人間青木繁の評判は悪く、その激しい言動は次々に敵対者を作っていった。また、『旧約聖書物語挿絵』で得た百円で帽子やステッキや靴を買い、あてもなく遊び回り、金がなくなって、「何故俺は絵具を買わなかったのか!」と嘆くといった無軌道さも人々に不信感を与えた。

数少ない青木の支援者は、福田たねとその家族であった。
明治38年8月、たねとの間に一児幸彦が誕生すると栃木県芳賀郡水橋村の福田家の近くに住み、庇護を受けて平穏な生活を送る。そして明治40年、この地で『わだつみのいろこの宮』を描き上げる。

明治40年は、我が国の近代美術元年とも言える年であった。洋画界、日本画界とも旧派と新派が激しく対立していたのであるが、同じ土俵で競うことが出来るよう「文部省美術展覧会(文展)」が開設されることになった。現在の「日展」の原形である。
そして、秋の第一回文展の前哨戦ともいうべき「東京府勧業博覧会」が同年3月に開催され、青木は『海の幸』に続く大作『わだつみのいろこの宮』を出品し一世一代の勝負に出る。

『わだつみのいろこの宮』 明治40年(1907)油彩 185×68.5cm
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私が若い頃にこの絵を画集で観た時の印象は、「木の上にいる高貴な美少女に召使いの女二人が壷の水を捧げている場面」であった。また、そのアール・ヌーヴォー的な画風にも官能的なものを感じ、青木繁とはモダンな面も備えた画家なのだと感心した。
かつて小林秀雄は、「絵画というものは解説など読まず、題名にとらわれず直感的に観るものである」と言っており、私も極力実践している。(余談になるが、昨今の美術展は解説パネルだらけで更には有料音声ガイドまで用意している。小林が見たら激怒するであろう)

『わだつみのいろこの宮』は、古事記の海幸彦と山幸彦の物語の一場面を描いている。
兄の海幸彦から借りた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の宮」へ辿り着き、水を汲みに来た海神の娘豊玉姫と出会う。
やがて二人は婚姻を結び、しばらくいろこの宮で暮らすのであるが、釣り針を取り返した山幸彦は海神から宝物を貰い帰ってゆく…。浦島太郎の物語の元になったとも言われている。

さて、私の直感的な印象は青木の制作意図と大きく違っていた。木の上の美少女は山幸彦であったし、召使いの一人(左の女性)は豊玉姫であった。さらに重要なのは、私には到底海底の場面には見えず、豊玉姫の側に描かれた水泡は壷からこぼれ落ちる水滴を描いたものと信じ切っていたのである。
今回の『青木繁展』での最大の楽しみは、『わだつみのいろこの宮』の実物を観た際に私の直感的印象が崩れ青木の術中にまんまとはまるか、ということであった。

この絵を観た夏目漱石は、小説『それから』の中で称賛しているのであるが、「…青木といふ画家が海の底に立つている背の高い女を画いた…」と書いている。やはり実物は海底を彷彿とさせてくれるのだろうか…。
私はついに絵の前に立った。結果、ほぼ私が抱いてきた直感通りであった。あえて海底と思えるのは、見事に表現された水泡だけであった。

青木は『わだつみのいろこの宮』を制作する前に詩人の蒲原有明に、「『黄泉比良坂』は海中ではなかったですか?」と問われ、「あれは海中とも地中ともわからぬということで苦労しましたが、今度は正真正銘の海中、例えば山幸彦が豊玉姫と出会うところなどを描いてみたいと思っているのです」と語っている。つまり、あくまでも青木は海底の場面を描いたのである。
かと言って、私は『わだつみのいろこの宮』に失望した訳ではない。その絵画としての完成度は感動以外のなにものでもなかった。

しかし、この作品の審査結果は三等の末席、一等から数えると23番目という屈辱の審判が下ったのであった。
青木は、「あの絵が一等になり千円の値段で売れれば全てが変わる!」と回りに豪語し、夏目漱石が絶賛していたとの噂を聞いて絶対の自信を深めていた。福田たねの父親の、「経済的にはこちらで援助するから、娘と身を固めてはどうか」との提案にも、「いやいや、あの絵が一等になればご迷惑を掛けることなく…」とうそぶいていたのである。

さて、私は何故にこの作品が博覧会で評価されなかったのかを考えた。
審査員の耳にも届いていたであろう青木の悪評は別にして、「青木繁『わだつみのいろこの宮』」と題されたこの絵を観た時に、審査員たちは、「ん?、これは海の底の絵ではないのか?」と一様に反応したのではないか。また、青木の斬新で激烈な作風に期待した審査員は、その落ち着き払った作風にがっかりしたのではないか。
『海の幸』にしても『黄泉比良坂』にしても、青木は展覧会での入選などを特に意識せず自由奔放に創作したように思う。その反面『わだつみのいろこの宮』は、困窮した生活を何とか打破することを第一の目的にして一等になることのみを画策し、インスピレーションよりは技巧に頼り、言うなれば考え過ぎの面白みのない絵を描いてしまったのである。

もしも、かつての青木の芸術的情熱をもってこの題材に挑んでいれば、「海底の情景」など驚嘆の表現力をもって万人を唸らせていたであろう。
我々が『わだつみのいろこの宮』に感動していることなど、青木本来の才能の1%にも及ばないことなのであります・・・。

まだつづく。。。。
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by Patch_It_Up | 2011-08-28 02:35 | 青木繁 考

青木繁展-4・「朝日」編

『わだつみのいろこの宮』は夏目漱石をはじめとする文学者や一般人には好評で、新聞紙上にも称賛の記事が載った。しかし勧業博覧会の審査員の評価は散々なものであった。このような現象は現代の美術界においても日常茶飯に生じているだろう。東京国立近代美術館のガイドブックには文展開設が「これを契機に美術が大衆化し世間の注目をあつめるとともに、文展が画家としての社会的、経済的な位置付けを決定するようになるなど、美術が制度化されるという形骸化も生じました」と書いている。私には100年を経過しても我が国の美術界は何も変わっていないと思うのである。

さて、自分の子供に海幸彦・山幸彦に因んで幸彦と命名していることからも、青木がどれほど『わだつみのいろこの宮』に熱を入れていたかが分かる。また、経済的な期待も尋常ではなかった。
『青木繁展』では本作品の横に当時の「東京勧業博覧会美術館出品図録」が展示しており、『わだつみのいろこの宮』のモノクロ写真を見ることが出来た。不鮮明な写真ではあったが、明らかに現物と違う部分を発見した。絵の上部左右には円を描くように金色の塗りつぶしがあるが、写真にはそれがなく樹の枝が画面いっぱいに描かれているのだ。おそらく、青木はなんとかこの絵を売却しようと装飾的な工夫を後に施したのであろう。

勧業博覧会によってどん底に突き落とされた青木ではあったが、まだチャンスはあった。秋の第一回文展である。青木は気を取り戻し文展へ向けて闘志を燃やしていたようで、東京美術学校の同期生、和田三造とこんな会話を交わしている。
「和田君、文部省が展覧会を主催してくれるのは我々にとってこの上ない痛快事だなあ」
「発表の場が増えてありがたいことだ」
「僕が画界を見渡してみるに、手応えのありそうな相手は和田君ぐらいしか見当たらないね。この檜舞台で君と勝負を決しようじゃないか」
「そりゃあ大いに結構、だがその栄誉は僕のものだよ」
この時、和田の制作中の作品を見て青木の闘志は大いに掻き立てられるのであった。

しかし、いよいよ文展の作品に取り掛かろうとした矢先、父親が死去する。長男である青木は郷里久留米で負債の整理、母親と遺家族の扶養を一気に背負うことになる。当然文展への挑戦は諦めざるを得なかった。
それでも東京の友人に頼み、過去に制作した『女の顔』(当ブログ「その一」参照)を出品するが門前払いであった。
文展の審査結果は青木をさらに追いつめた。一等は該当無しであったが、二等つまり記念すべき第一回の最高賞は、なんとあの時に青木が見た和田三造の『南風』だったのである。

和田三造 『南風』 明治40年(1907) 油彩 151.5×182.4cm
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私は東京国立近代美術館でこの絵の観たが、思わず後退りするほど圧倒された。
青木が仕方なしにしても『女の顔』のような小品を出品しようとしたことは、悲しいくらいの焼け石に水に思える。

父親の死をきっかけにして青木は郷里に縛られることになり、福田たねと幸彦とも二度と会うことはなかった。九州での生活は不遇そのものであったが、多少の絵の仕事はあった。『青木繁展』では九州時代に描かれた肖像画が5、6点展示してあったが、ただ金のためだけに描いた生気のないまるで遺影のような作品ばかりであった。私も肖像画の注文をいただいているが、如何に生き生きと描くかが第一であり、青木のやる気無さが伝わってきた。青木自身の生気も薄れていったのであろう。

僅かに残された意欲を持って制作し、第三回文展に出品したのが『秋声』である。

『秋声』 明治41年(1908) 油彩 131×98.6cm
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明らかに黒田清輝など印象派的写実を好む文展審査員を意識した画風である。もう青木の芸術性はどこにも見当たらない。入賞の暁には再び上京し画壇に返り咲こうとした青木の夢も、落選によって打ち砕かれる。以前は展覧会の度に新聞や雑誌に寸評を求められていたが、今回はそれすらなかった。和田三造『南風』にあれだけ悔しい思いをしながら、このような絵しか描けなくなった青木は実に無念であっただろう。さらに、不運にもこの頃から肺患の兆候があらわれる。
あまりにも悲しいこの作品は凝視に堪えられなかった。

全てから逃れるように青木は九州を放浪する。スケッチをしながら酒と女に溺れる破滅への旅であった。
明治43年夏、美術学校の先輩である平島某を頼って佐賀県小城を訪れる。小城中学校の教師をしていた平島は青木を世話することになるが、同居の姪に手を出されたりして困惑する。青木は元々人の恩をなんとも思わない気質がある。
平島は青木を姪から遠ざけるために青木に旅を勧める。そして向かったのが唐津であった。そこで絶筆となる『朝日』を描く。

『朝日』 明治43年(1910) 油彩 72.5×115cm
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この絵は小城中学校(現高校)が額縁程度の金で買い取った。おそらく平島の尽力によるものであろう。
かつての情熱の微塵も感じられないという人が多いが、実物を観て私は大いに感動した。確かに最盛期の青木芸術とはかけ離れているが、九州時代のものとしては最高傑作であった。何の邪念も感じられない穏やかさ。心の豊かささえ伝わってくるようだ。福田たねと眺めた房総布良の海を懐かしんでいるのか、それとも豊玉姫を想う山幸彦の心境なのか。
今回『青木繁展』を観に行った時、私は依頼された海の絵をちょうど描き始めた頃であった。この『朝日』の言い知れない繊細さと奥深さは、創作に大いなる刺激をもたらせてくれたのである。

『朝日』を描き上げてまもなく病状が悪化し喀血。翌明治44年3月25日、福岡の病院で28年の生涯を閉じる。
あまりにも不遇だったその一生は、青木自らが不幸を招き続けた結果であると言えなくもない。あるいは、16歳の頃に肺結核を患ったことから長くない自分の寿命を悟り、人が理解出来ないほどの早さで激走したのかも知れない。
芸術家青木繁および青木芸術作品の光と影の全貌を体感できる『青木繁展』は、単に絵画を鑑賞する展覧会ではなく息詰るほどの悲劇の舞台を観ているようであった・・・。

連載はこれで終了。
しかし明日も私はブリヂストン美術館へ出掛けるのであります。。。。

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by Patch_It_Up | 2011-08-28 02:34 | 青木繁 考

青木繁「海の幸」記念碑

11月21日、JR東日本が企画した「駅からサイクリング・秋の南房総編」に参加した。
自転車を解体せず乗せられる専用列車で両国駅から外房線の太海駅まで行き、房総半島の海沿いを館山まで70km弱をサイクリングし、専用列車で帰ってくるイベントである。
メインスポットは野島埼灯台と洲埼灯台で、海好きの私は灯台や漁港をゆっくり巡り、絵になる風景を撮影するのを楽しみにしていた。
コースマップは当日両国駅での受付時に渡されたのであるが、それを見た私は愕然とした!。コースマップには小さく「青木繁『海の幸』記念碑」のポイントが!!!。
実に迂闊であった。明治の天才画家である青木繁ゆかりの地、布良(めら)がルート上にあったのだ!。布良は我が国の近代美術に於ける聖地のひとつと言っても過言ではない。
元々コーススケジュールがタイトであるため、マッタリと南房総の海景を楽しむ予定を変更し、真っ先に海の幸記念碑を目指すことにした・・・。


青木繁 「海の幸」 1904年 油彩 67.0×178.7cm
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青木繁は明治15年(1882)久留米市に生まれた。
明治33年、東京美術学校に入学。翌々年、第八回白馬会展に神話を題材にした十数点の水彩画や色鉛筆画を出品。主宰者である黒田清輝の絶賛を得、第一回白馬賞を獲得する。明治37年、東京美術学校卒業。同年夏、房州布良に滞在し、『海の幸』等を制作。『海の幸』は秋の白馬会展の話題をさらい青木は名声を得る。
『海の幸』以降は評価を得られず、無軌道、破天荒な生活を送る。明治44年、放浪の末、福岡の病院で肺結核にて死す。享年二十九。

このように、青木の生涯は布良で『海の幸』を描いた時が絶頂期であった。
明治37年7月15日、青木、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねの四人は霊岸島(現東京都江東区新川附近)から汽船に乗って館山へ向った。翌日、一行は館山から三里の道をスケッチしながら房総半島南端の布良へ着く。
人の紹介で地元の網元宅、小谷家へ下宿することにし、一ヶ月半の滞在中に青木は『海』、『海景(布良の海)』そして『海の幸』等の傑作を生み出す。
この布良でのエピソードは、愛人である福田たねとの甘美な情事や、爆発的な『海の幸』の創作現場等、房総の海の情景とともにロマンティックな想像を掻き立てる。
私自身、中学の美術教科書で見た『海の幸』に感動し、以来青木繁の画業と生涯に興味を持ち、画集を集め、現在では『海景(布良の海)』と『天平時代』を常設展示しているブリヂストン美術館へ定期的に詣でているのであるが、青木に対する印象は、例えば同時期を生き夭折した石川啄木のような人間愛に満ちた青年像であった。

「海景(布良の海)」 1904年 油彩 35.0×71.5cm
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青木繁の伝記は今まで誰も書いていないと思っていたが、今年の春に一冊発見した。
渡辺 洋著『悲劇の洋画家 青木繁伝』2003年発行。
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元神戸大学教授の著者が綿密な取材を重ねて書いた本書は、実に衝撃的であった。
それまでの青木像と作品のイメージが悉く崩れ、そして目の前に迫ってきた。
ナルシストであるのは芸術家として仕方ないと言えるが、青木は人の愛情や厚意をどう捉えていたのか。当時、画壇の頂点に君臨していた黒田清輝から多大な評価を得ながら、良家の出で財力に任せて絵を描く黒田を毛嫌いし悪態をつく。そうしていながら生活が困窮すると美術教師の推薦をしてくれないかと頼む。
福田たねとの関係も布良までは情熱的であったが、翌年たねが妊娠すると絶望感に陥り「女子供があっては良い絵は描けん」と逃げまくる。たねが出産後、資金援助をするというたねの実家(宇都宮)の厚意も、「日本一の絵描きになるちゅうて上京したのになんでこんな女と田舎で暮らせようか」と蔑ろにする。

こんな話もある。
父危篤の知らせを受け久留米に帰郷した際、地元の造り酒屋の主人に百号ばかりの大作の依頼が入る。しかも、アトリエまで与えられ完成までの生活費も援助するという。この願っても無い話に青木は感謝の心で応えるどころか、ダラダラと完成を引き延ばし、その間主人に小遣いをねだり廓で遊び放題。そうして完成した『漁夫晩帰』は、当然のことながら『海の幸』とは程遠い生命力に乏しい作品であった。これこそ主人の厚意を踏みにじるものであるが、青木は過分な報
酬を貰いながら、父親が亡くなり路頭に迷う実家の母親には僅かばかりの金しか渡さなかった…。

「漁夫晩帰」 1908年 油彩 118.3×182.5cm
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『海の幸』に関するエピソードも非常に面白い。
私はてっきり、青木が布良の浜辺で大きな鮫を担ぐ漁師たちの姿を見て感動し、その場で描き殴ったスケッチを基に、小谷家で一気に描き上げたものと思っていた。
しかし、実際には坂本繁二郎が洲埼近くの浜辺で見た光景を聞いた青木が、想像で描いたものであった。青木は現場に赴いて鮫の残骸をスケッチしたりしているから全くの想像とは言えないし、布良の地でこの絵を描いたことの意義は揺るがないが。

また、未完成のように見えるのは、意識の残像を限界まで表現した臨場感によるものとも思っていた。私の手元にある古い画集の解説にも、「一見未完成だが、青木は芸術的勘所を押さえてしまうと、むしろそれを壊すことを恐れた」とある。
がしかし、この絵で新進画家としての地位を不動のものにすべく東京で仕上げに入っている時に、困窮する実家から口減らしのように姉と弟が転がり込む。
そして、引っ越しやら金策に追われている間に白馬会の出品期限となり、青木は泣く泣く未完成の絵に『海の幸』と名付け出品したのである。

画面の中央でひとりだけこちらを向いている人物は福田たねと言われていて、これも布良での一夏の思い出の刻印なのかと思っていたら、二年後に加筆されたものであった。『海の幸』は展覧会で絶賛されながらも買い手は無く、青木の生活はドン底を極め、何とかこの絵を売ろうと奔走する。国木田独歩に強引に売りつけようともしている。そしてその間、思うような絵が描けず『海の幸』に筆を加えることしか出来ず、その時にこの顔も加筆したのであろう。その頃はたねへの愛情も薄れていたから、たねの顔であるとしたら恋心で描いたものではないことは確かだ。
明治37年に人々を驚嘆させた大傑作は、遜色した背地の金色と共に我々が今観ることの出来る作品とは厳密には違うのである。
しかしながら、当時の批評家が「これによって初めて日本の油絵が生まれた」と絶賛したように、『海の幸』は我が国近代芸術最大級の歴史的作品であることには変わりない。青木繁の野望とその後の失望が宿っているのである・・・。

さて、これほどの青木繁への思い入れがありながら、所縁の地を通る「駅からサイクリング」を事前にルート検証しなかった私は誠に愚か者であった。
本来であれば小谷家はもちろん、布良の海岸、洲埼の砂浜、青木たちが上陸した館山の港などを巡るべきであったが、まあ時間的には無理があり、青木たちが滞在した夏にもう一度訪れることにしよう。出来れば平成の福田たねを連れ立ってスケッチ旅行をしてみたいものだ(笑)。

野島埼灯台から7km程の地点に「青木繁『海の幸』記念碑」はあった。
保存の為なのか分かりやすい看板もなく、多くの参加者は通り過ぎたのではないか。
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阿由戸の浜を見下ろす小さな広場に記念碑が建っていた。
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青木没後50年を記念して、昭和37年に当時の館山市長や坂本繁二郎らが発起人になり募金によって建てられた。除幕式には福田たねと遺児である幸彦も参列したそうだ。たねはどんな思いでこの地に立ったのだろう。
私も105年前の夏の日々に思いを巡らせながら、阿由戸の浜を眺めた。


広場にひとり
後から人が来る気配もなく、波の音だけが足下に聞こえる
浜にイーゼルを立て絵を描いている青木たちの幻影を見た
たねの白いうなじさえも見えるようだ
広場の真ん中に座り込んで、カレーパンを食べる
どこの食堂にも寄らず我慢してきたランチタイム
青木たちもここで握り飯やらを食したであろうか
食べ終わって大の字に寝っころがった
恐ろしく青い大空、ゆっくりと動く真っ白な雲の群れ
青木たちが見た明治の空と同じなんだな
青木に捧げるタバコを一服
煙が真っ直ぐ空に昇っていった・・・


青木たちも訪れたであろう富崎漁港に立ち寄って布良を後にした。。。。
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野島埼灯台にて
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by Patch_It_Up | 2009-12-17 18:15 | 青木繁 考